映画の完成目前

映画の完成が目前まできた。
毎日、サウンド・スタジオとポスト・プロダクションのスタジオを往復しながら、
音の編集&ミックス、色の調整、グラフィックスの完成、が全て同時進行中。

編集のバーナディン、サウンド・エディターのバーバラ、
ミキサーのピーター、DPのエリック、カラリストのアレックス、
グラフィック・デザイナーのアミット…。

皆、細かいところに徹底的にこだわる完璧主義者たち。
目と耳が抜群にいいので、小さなミスも彼らのふるいに必ずひっかかってくる。
少しでもクオリティの高い完成度に仕上げようと、皆必死だ。
バーナディンは、11月の感謝祭以来、土日も全く休みなし。
クリスマス・ショッピングをする時間もなく、年末のパーティも全部パスして…。
本当に申訳ない!

新作の50X50は、いくつか違う機種のSONYのHDカメラで撮影した。
コンピューターの画面で見る分には全くわからなかったのに、
ポストプロダクションにある試写室の大画面で見ると、めちゃくちゃだ。

少しでも統一感を与えるため、全体にfilm grain と言って、
うっすらとフイルムの粒子のようなイフェクトをかける。
すると、ビデオ特有のシャープすぎるエッジや色味が柔らかくなり、
フィルムで撮影したような映像になる。

SONYのカメラの特徴らしく、映像が全体に黄緑がかって見える。
これを取り除き、人の顔にほんのり赤味を入れて顔色を良くしたり、
逆に赤ら顔の人は、赤味を押さえる。
空の色も、ハワイ、マイアミ、ケンタッキー、モンタナで区別する。

また“ヴィニエット”という効果を、画面の中で強調したい部分にかけると、
わずかに暗くなった周囲からその部分がうっすらと浮き上がってきて、
目が自然とそこへ向かう。ビデオで撮影したフラットな映像も、
こういう効果を加えていくうちに、くっきりと立体感を持ってくる。
というのが、カラーコレクションで行う作業。
極端に言うと、撮影時に露出を間違ったり、照明がまずくても、
この段階で十分修正できる。

前作の映画でカメラマンの一人だったエリックは、
今回DP(Director of Photographyの略―撮影監督)に昇格。
まだ30歳という若さだけれど、すごく映像的なセンスがいい。
彼は、どちらかと言うとコマーシャルや劇映画のカメラマンなので、
最初の頃は、仕事をする度に現場で衝突していた。

劇映画でどんなにすぐれた映像を撮れるカメラマンも、
ドキュメンタリーの現場になると、全く力を発揮できないことが多い。
使う筋肉も脳みそも全然違うからだ。

ドキュメンタリーのカメラマンは、目よりも良い耳を持っていないと
ダメだと言われる。つまり片目でファンダーをのぞきこみながら、
もう片方の目は、常に周囲に向けられ、そして耳から入ってくる情報にも
最大限に注意を払わなくてはならない。撮影している場面の外で
面白いことが起きていたら、即座にそこへカメラを向けるためだ。

シンプルな例を上げると、舞台上のイベントを撮影している途中で、
観客席から大爆笑や大喝采が起きたら、そちらに自然とカメラを向ける。
ドキュメンタリーのカメラマンには、そういうセンスと筋肉が必要。
簡単そうに聞こえるけれど、これができないカメラマンが結構多い。

エリックに話を元に戻すと、彼に今回、カラーコレクションに
つきあってもらった。「僕は、カラリスト泣かせだよ」と最初に予告された通り、
彼の注文の細かさは尋常ではない。ほんのわずかな色味の違いを見分け、
それをどう調整することで、画像がきれいになるかを即座に判断できる。
私は、DPというのは現場で撮影するのが主な仕事だと信じていたけれど、
実は編集室でカラーコレクションする時に、彼らの本領が発揮される
ことがわかった(ドキュメンタリー映画では、DP-撮影監督―ではなく、
ほとんどが単なる「カメラマン」)。

ただし、エリックはあまりに完璧主義者なので、
彼の言う通りに全ての細かい調整をしていたら膨大な費用がかかってしまう
(カラーコレクションには、1時間につき$350のコストがかかる!)
時々「そこまで細かく修正しなくてもいいよ」と牽制しなくてはならない。

前回のメルマガで、先月亡くなったアーティスト、ウイル・バーネットの
言葉を紹介した。「見る目」とは、持って生まれた才能なので、
お金持ちとか、貧乏とか、教養のあるなしは、一切関係ない、と。

エリックは、高校を卒業してすぐに映画の撮影現場で
ガファー(照明技師)として働き始めた。映画学校へ行ってカメラマンの
勉強をしたわけでもない。でも、ハーブと同じように、
生まれつき特別な「見る目」を持っているので、
現場でぐんぐん力をつけて行ったのだと思う。

私には「見る目」なんて全く備わってないけれど、
エリックとカラリストのアレックスと一緒に、
連日スタジオでじーっと画像を見つめていると、
これまで見えなかったもの(例えば前に書いたフィルム粒子など)が
くっきり見えるようになってくるから不思議だ。
「見る目」も、筋肉と同じように鍛えられていくのだ(当たり前のことだけど)。

音の編集やミックスを通じて学んだ「聴く耳」についても書きたいけれど、
今日は、紙面も元気も尽きてしまったので、いつかまたの機会に。

あと2日で英語版の「50X50」が完成!来週、そのテープを持って日本に帰り、
日本語版の字幕入れ作業がスタートする。
来年春の日本公開は、一歩一歩実現に向かって進んでいる。

今は、極度の睡眠不足で頭がぼーっとしながらも、嬉しさと寂しさと、
ほんの少しの恐ろしさが入り交じって、とても複雑な気分です。

アーティストのウィル・バーネット

先月、ハーブ&ドロシーの長年の友人で、
アーティストのウイル・バーネットが亡くなった。101歳だった。

5年前、『ハーブ&ドロシー』のためにインタビューした当時は、97歳。
車椅子生活ではあったけれど、言葉使いもしっかりしていて、
97歳とは思えないほど矍鑠としていた。
ウイルは亡くなる直前まで創作していたという。

彼が“Collectors” というタイトルで描いたハーブ&ドロシーの
ポートレイトを覚えている人も多いかと思う。
シンプルだけど、二人の性格をとても良く表している。
ハーブが前屈みになって、作品を食い入るように見つめている後ろで、
ドロシーが顎に手をあてて、背筋を伸ばして考えにふけっている姿を描いた作品。

一見普通のドローイングのようだけれど、
縦=ドロシーと横=ハーブの構図は絶妙。
それは、直感のハーブと考察のドロシーという、
二人の性格とパートナーシップのバランスの象徴でもある。
と同時に、一般的なコレクターの性質でもある。

一見シンプルなドローイングに見えるけれど、
実はとてもコンセプチュアルで奥深い作品だ。ハーブが亡くなった時から、
ナショナル・ギャラリーでこの作品が展示されている。
ウイルが亡くなって、二人の追悼になってしまった。

映画の中でも使ったインタビューで、
彼は、作品を見る目=審美眼は、持って生まれたものだ、と言っていた。
富豪とか貧乏、教養がある、ないとは全く関係ない。
それは、彼が美術大学で多くの生徒を教えてきた経験からわかったことだそうだ。
ハーブとドロシーの「見る目」は、持って生まれたもので、
誰もが養えるものではない、というのがウイルの説だ。

果たしてそうだろうか?
確かに持って生まれた資質はあるかも知れない。でも、アートやに限らず、
あらゆる才能と同じで「いいものを見る目」というのは、
訓練によっても養われるのではないか、と思う。

逆にどんなに才能を持って生まれても、その才能を見つけて、
育てなければ何もならない。「見る目」も同じだと思う。
アーティストのリチャード・タトルも、インタビューで「ミルメ」と
日本語を使って「こんな素晴らしい単語はないよねえ」と感心していた。
「見る目」という言葉は、日本語独特のものらしい。

それで言うと、ドロシーは、ハーブに出会ってなければ
「見る目」を養わなかっただろう。
ハーブが亡くなってからは、「見る」ことを辞めてしまった。
ハーブの死とともにコレクション終了宣言をし、
作品を買う事も「見る」ことも終了した。

だからドロシ―曰く、もう「見えない」という。
それは、ピアノの練習をずっとしてないと指が動かなくなったり、
運動をしていないと筋肉が衰えるのと同じことらしい。
「見る目」も訓練しないと、衰えてくるというのだ。
彼らが、作品をコレクションする時の「見る」は、
私たちが美術館やギャラリーにふらっと行って
展覧会を見るのとは違う次元の「見る」なのだと思う。

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昨日、ドロシーがオフィスを訪れた。
映画のほぼ完成版をチェックするために。

『ハーブ&ドロシー』の時は、ハーブと一緒にマッチ箱のような
小さな編集室を訪れて、編集のバーナディンと4人で試写した。
見終わった後、ハーブは「ブラボー!」と叫んで、拍手。
ドロシーは「私たちはごく平凡は人間なのに、この映画だと、何だかとても
特別な人のように見えるわ」と言いながら、感動して涙を流してくれた。
それを見て、バーナディンと私ももらい泣きして皆で嬉しい涙を流した。

今回の試写では、ドロシーが一人で映画を見てどんな反応をするだろう?
ドキドキだった。映画には、生前のハーブの姿で溢れている。
映画が世界中で公開された今も「ゴミゴミしたアパートが恥ずかしいわ」と
つぶやくドロシーから、ダメだしが出ないだろうか?
ハーブが亡くなった後のエピローグには、どんな反応を示すのだろう?

ドロシーは、途中まで冷静に「この人のコメントのここは間違っている」と
指摘したり、「数学と違ってアートには間違った答えはない」と
子供たちに語りかける美術館ガイドのせりふに「その通り!」と
同意したりしていた。
ハーブが亡くなってからの最後4分間のシーンは、
一言も話さず静かに涙を流してみていた。
見終わった後は「見るのがつらいわ」という一言。
私たちも、そんなドロシーを見るのがとてもつらくて涙がでた。
4年前の試写の時とは違って、今回は悲しい涙だった。

私たちは、ハーブと毎日画面を通じて会っている気がしていた。
でも、ドロシーにとっては50年間人生を共に過ごしたハーブと別れをつげ、
少しずつ元気になってきたところで生前のハーブを見たのだから、そ
の悲しみは計り知れない。

試写の後、ドロシーと一緒にランチに出かけたが、映画の話は一切でなかった。
ドロシーにとっては、あまり満足いく作品に仕上がってなかったのだろうか、
と少し心配になる。

夜になって「すばらしい映画をもう一本完成できてよかったわね。おめでとう!」
というメッセージがメールで届いた。

少なくとも、ドロシーはこの映画を祝福してくれているとわかってホッとした。
ハーブに見てもらえなかったのは残念でならないけれど、
製作中もずっとハーブに見守られているという気がしていた。
ハーブも向こう側から喜んでくれていること願う。