圧倒的に心を動かされるドキュメンタリー SEARCHING FOR SUGAR MAN

最近、何人かの人にSEARCHING FOR SUGAR MAN(以下「シュガーマン」)見た?」と立て続けに聞かれて、気になっていた。この週末、映画を見てから、私も、会う人会う人に『シュガ―マン』見た?と言わずにはいられない。みる前も、みている最中も、みた後も、じーんと心が熱くなる。今年見た映画の中でも最高の1本だった。

『シュガーマン』 は、1970年代初めに、2枚だけアルバムを出して、姿を消してしまったロドリゲスというシンガー・ソング・ライターの行方を追う話。当時、彼のアルバムを制作したプロデユーサーや、レコード会社の人は、皆口を揃えて言う。今までに、手がけた中で、最も印象に残っているアルバムだと。そして、ロドリゲスは、最高のミュージシャン、ひょっとすると、ボブ・ディランよりすぐれていた、と。でも、なぜかアルバムは全く売れずに、レコード会社は2枚目のアルバム発売直後に契約を打ち切り、ロドリゲスは、音楽界からあっけなく姿を消す。その後、ステージでガソリンをかけて焼身自殺したとか、ピストルで頭をぶち抜いて死んだとか、色んなウワサが流れるが、信実は闇の中。

ところが、ロドリゲスは、人知れず地球の裏側の南アフリカで圧倒的な人気を得ていた。あるアメリカ人がこっそりアルバムを持ち込んだのがきっかけで、レコードからテープにダビングされてどんどん広まって行ったらしい。当時アパルトヘイト真っ盛りの南アで、労働者の悲痛を歌ったロドリゲスの音楽(ボブ・ディランの音楽に政治色を強くした感じ)を若者たちが聞いて、反体制の声を上げていたのだった。このアルバムは南ア政府の検閲にひっかかるが、アルバムは、50万枚もの売上げで空前の大ヒット。その人気は、ビートルズや、エルビス・プレスリーをしのぐほどだったと言うから、スゴい。

ロドリゲスはその後一体どうしているのだろう?本当に死んでしまったのだろうか?疑問に思ったある南アの音楽ジャーナリストが、彼の歌詞から世界各地の街の名前を拾って、ヒントを探り、ネットを使い、ミルクの箱に人探しの広告を載せたりして、ついに彼を探し当てる。

 続いてネタばれになってしまうのを承知で書いてしまいますが、結局彼は、デトロイト郊外のディアボーンという街に住んで、ずうっと肉体労働をしながら、ひっそりと暮らしていた。暖房もなくて、新聞紙をストーブに入れて暖を取るほどの貧しさ。どうも、南アでの50万枚ものレコードの売上げのロイヤルティも、彼には一切支払われてない様子。というか、彼がそれほど南アで人気があるなんて事も、本人の耳に一切入ってなかった。

音楽界から姿を消した後、お金も名声も求めることなく、自分と同じ、貧しい労働者階級の人の声になろうと、デトロイトの市議会議員に立候補したりもするが、あえなく落選。でも、文句一つ言わず、誰もやりたがらないような、汚くてキツい仕事を率先してやり、ギターを弾き、歌を歌い続ける。彼の孤高な姿は、都会の片隅に棲む清貧な詩人であり、そして聖人のようでもある。

クライマックスは、彼を探し当てたジャーナリストと、地元の熱狂的なファンであるレコード屋の親父さんで計画して、ロドリゲスを南アフリカへ呼びよせることになり・・・

スエーデン人の監督のマリック・ベンジャルールは、スエーデンTVに放送するための、7分程度のショート・ストーリーを南アで探していて、ロドリゲスのことを知ったという。それが、あまりにスゴい話なので、のめり込んでしまって、4年間映画製作にかかりっきり。最後は、資金もなくなって行き詰まったが(ん?どっかで聞いたことある話?!)最後は、あるプロデユーサーとの出会いで資金も集まり、完成にこぎ着けたとのこと。編集、イラスト、作曲も手がけているというすばらしい才能。何と、映画の中のいくつかのシーンは、iPhoneにスーパー8のアプリをダウンロードして撮ったという。

『シュガーマン』は、今年サンダンス映画祭のオープニング映画に選ばれ、審査員特別賞を受賞。アカデミー賞の有力候補とも言われている。そして何より嬉しいのは、この映画のおかげで、ロドリゲスの才能が認められたこと。彼のサイトを見ると、全米ツアーのスケジュールでびっしり。来月からはヨーロッパへも遠征する予定。(彼の熱狂的なファンになった友人がチェックしたとことろ、彼のコンサートは、ほとんどソールド・アウトらしい!)彼のアルバムもチャート急上昇中だ。プロモーターもレコード会社も、今度は彼にちゃんとロイヤルティを払って下さいね!!と声を大にして訴えたい。

ロドリゲスという才能を再発見して、見事に彼の物語を伝えてくれたベンジャルール監督に拍手喝采!

コスタビはコン・アーティストか?

一昨日、アーティストのマーク・コスタビをインタビューした。

私がNYに来たばかりの1980年代終わり、コスタビは時代の寵児とばかりに、アンディー・ウオーホールと写真にツーショットで収まったりして、メディアを賑わしていた。私も、当時雑誌の取材の仕事をしていた頃、一度だけ彼をインタビューした事がある。(どんなインタビューだったかは、全然覚えていないけれど)日本でも、かなり知名度があり、人気もあったと記憶している。

あれから25年後の今、彼の名前がメディアに出る事はほとんどない。それどころか、彼の評判はがた落ち。何年か前に、Con Artist- Rise and Fall of Mark Kostabi (ペテン師アーティスト マーク・コスタビの成功と凋落)なんていうドキュメンタリー映画が作られたほど。(プロデユーサーは、知合いのペリー・グラヴィンだったこともあって、よく覚えている)

彼の評価が落ちたきっかけは、アシスタントを大勢やとってアートを「大量生産」し、アートをビジネスにして儲けるぞ!みたいなことを公言したからだ。100ドル札で身体中をカバーした写真が雑誌に載ったりして(本物の100ドル札を700枚使ったとか)、随分アート界の神経を逆撫ですることになった。とにかく、有名になるためには、なりふり構わない、みたいな姿勢が下品に思われたのか、そのうち彼の名前は、全く聞かなくなった。

その経緯はある程度知ってたので、50X50の取材をして、ハーブ&ドロシーのコレクションのリストにコスタビの名前を発見した時には、本当に驚いた。ええ、あのハーブ&ドロシーのコレクションに悪評高きコスタビの作品が?しかも76点も?!でも、良く見ると全ての作品は80年代半ばに描かれたドローイングで、コスタビ曰く二人が買ったのは全て「アシスタントを雇う前に、彼が自分で描いた」作品とのこと。ドロシーに聞いたら「アシスタントを雇って創作するのは、ミケランジェロだって、ジェフ・クーンズだってやってるわよ。全然気にならない」とのこと。彼の作品は、楽しくて、ユーモアに溢れてるところを、ドロシーはとても気に入っている。

昨日訪れたコスタビのチェルシーのスタジオでは、今も大勢のアシスタントが、せっせと絵を書き、絵を大量生産していた。一時は、日本からの需要が多かったけれど、バブル崩壊後はぱたりと注文が途絶え、今はもっぱらイタリアからの注文が多いという。(コスタビは、1年の半分をローマで過ごしている)

50歳を過ぎた彼は、少々中年太り気味で、派手なストライプのシャツや、プラチナや、赤や緑に染めていた80年代の頃の華やかさはない。何を聞いても、率直に答えてくれるし、自分を良く見せようとか、そんな素振りも一切ない。今、個人も企業も、自分達のイメージを傷つけないようにとやっきに取材コントロールしているのに、彼の正直で開けっぴろげな態度には、とても好感が持てた。映画「コン・アーティスト」についても、彼は「そういう見方もあるということで」と言って気にしている風でもなく、今も堂々とFAME IS LOVE、「名声は愛」と断言している。

私自信も、彼に会う前は、世間と同じ色眼鏡で見ていた。ハーブ&ドロシーは、どんなアーティストでも、決して批判、非難しない。世間の評判とは関係なく、「アーティスト」という人種を愛し、尊敬し、純粋に作品だけを見つめてコレクションした。コスタビを取材してみて、誰にも惑わされず自分でアーティストやアート作品を評価することの難しさを思う。それには、ハーブ&ドロシーのように、相当の自信と信念ががなければできないと改めて実感した。

5年ぶり、クリストとのインタビュー

撮影後にクリストとクルーと

前回『ハーブ&ドロシー』のインタビューで、マンハッタンのクリストのスタジオを訪れたのは、5年前。まだ奥さんのジャンヌ=クロードが健在の頃。必ず2ショットで二人同じサイズで画面に入るように撮影すること、とジャンヌ=クロードに厳しく指示された。クリストが話そうとすると、真っ赤に燃えるような髪の毛を揺らして、彼女が話し始める。夫婦二人のやりとりが痛快だった。

クリストは、今回インタビューを快諾してくれたものの、一人で、どれくらい話をしてくれるのだろう・・・そんな私の不安なんて吹き飛ぶように、クリストはものすごく饒舌に、話し出したら止まらない。そして、ジャンヌ=クロードの名前が全ての文章に散りばめられていた。特に二人で1970年代からスタートしたマスタバとコロラド・リバーのプロジェクトの話になると目がキラキラする。今は、クリスト一人で進めているのに、あたかもまだ彼女が生きているかのような口調で。パートナーシップは、パートナー亡き後も続いている。

エネルギッシュなクリストを見て元気をもらった。彼の30年越しの壮大なプロジェクトに比べたら、私の映画なんて本当にささやかなものだとつくづく思う。

『50X50』の完成&発表を遅らせるという決断

いま、日本からNYへ戻る飛行機の中でこのメルマガを書いている。
今回は実質1週間だったけれど、とても実り多い滞在だった。まずは、メルマガを購読してくださってる皆さんにいち早くご報告。

日本での『ハーブ&ドロシー 50X50(仮)』公開が、来年春にほぼ決定しました!

映画の完成は当初、今年秋のはずだった。ハンプトン国際映画祭が10月の初めにあるので、そこでのプレミアを目指していた。ハンプトンは、2008年に『ハーブ&ドロシー』がドキュメンタリー映画部門の最優秀賞と観客賞のダブル受賞をした映画祭で、アートや映画の関係者も多く、プレミアをするにはこれ以上ぴったりのところはない。

プログラミング・ディレクターも「できるだけ完成版に近いカットを早く見せて欲しい」と、締め切りはとっくにすぎているのに、辛抱強く待ってくれた。私の頭の中は「『50X50』の世界初公開は、ハンプトン映画祭以外では考えらない」という思いで固まっていた。

そんな折、映画完成を急ピッチで進めていた7月末、ハーブが亡くなった。もしかすると……、という思いは春ごろからあったので、ハーブの逝去は ある程度想定内。

映画中で「ハーブの死」は、ストーリーとして大切だけれど、そこを強調しすぎるとテーマがずれてしまうのではないか。さらりと伝えるだけで、内容を大きく変える必要はない、と信じていた。

ところが。

ハーブが亡くなって3週間後、編集がどうしても前に進まない。それに、ハンプトン映画祭でのプレミアが決まっても、9月一杯でオンライン編集や音ミックスを終えて完成させる、というスケジュールで間に合うのだろうか。何よりも、ハーブが亡くなってからまだ1ヶ月ほどなのに、慌てて映画を完成してしまっていいのだろうか。

不安と疑問で頭がパンパンになる。NYでオフィスをシェアしているフィルムメーカーに相談したところ「まだ物語が決着してないんじゃないの?」という答え。「それに、映画祭のスケジュールに合わせて映画を完成させるなんてナンセンスだ」と。

その時、真っ暗な雲がすーっと晴れた気がした。そうだ、確かに二人の物語が完結するには、もう少し時間がかかるかも知れない。

ハーブのお葬式で、ドロシーは、コレクションの終了宣言をした。二人のコレクションは、ハーブと共に始まり、ハーブと共に終わったと。
クリスティーズの山口さんと先日お昼を食べたときに聞いたのは、コレクションは3つのD -Death(死), Divorce(離婚), Debt(負債)- で大きく動くということ。ハーブの死は、映画の中で大きな意味を持つのではないか?

そう思ってる矢先に、ドロシーから思わぬことを聞いた。ハーブの50X50に対する本当の思い、そして彼のコレクションに対するビジョン。

ハーブの生前には語られなかった新しい事実が明るみにでて、正直びっくり。
(詳しくは、映画を見てのお楽しみに)

やはり彼の死は、きちんと伝えなければダメだ。物語は、まだまだ完結していない。私の中でその思いがはっきりした時、ハンプトン映画祭での公開をきっぱり諦めた。

ハーブとドロシーの結婚50周年記念でもある今年中に、映画を完成して公開できなかったことは、とてもつらい。サポーターの皆さんにも、今年中の完成&公開を約束していたので、申し訳ない気持ちで一杯だ。でも映画のピクチャー・ロックは、一度しかない。中途半端なクオリティで、映画を世に出したくない。

監督としての私が「映画完成を来年春に延期」を決定して、「ハンプトン映画祭での世界プレミア」を叫んでいた、プロデューサーとしての私の声を黙らせた。

いまは、これでよかったと心から思う。来週から、新たな撮影やインタビューの予定が沢山入っている。つないであるカットにも大きく手を入れて、オープニングもエンディングも変えて一からやり直し。

そのため当初の予算もオーバーなので、また資金集めもしなくてはならない。本当にとほほ、だけれどこれも現実を相手にしているドキュメンタリー映画の宿命だから仕方がない。

という事で、完成は今年一杯で、アメリカでの公開も来年春になりそう。この後『ハーブ&ドロシー 50X50』は、日米同時公開を目指して前進します。

アートと何かが交差する時

この1週間は、 intersection – 交差点 という言葉がすごく気になった。

アメリカ人はこの言葉が大好きで、二つの一見相容れないものが交わって、意外な結果が出る時の表現によく使う。今週私が行き当たったのは、いくつかのアートとの交差点だった。

まずは中国人のアーティスト、アイ・ウェイウェイ(艾未未)のドキュメンタリー映画『Ai Weiwei : Never Sorry』。知合いの監督、アリソン・クレイマンが撮った映画で、サンダンス映画祭でも大きな話題になった。アイ・ウェイウェイは、中国政府を相手に反体制的なメッセージを発信する挑発的なア―ティスト。映画を見ていて、最初は命がけで創作活動をしているアーティストとしての姿に感動する。でも、そのうち何かおかしい?と思い始める。

たとえば、数年前の逮捕時に暴力を振るったと言って、私服警官にせまり、サングラスを奪い取り、戸惑う警官の写真を撮ってtwitterに載せるという行為。暴力を振るった警官がいいとは言わないけれど、警官だって体制の一つのコマとして言われたことをやったわけで、彼個人を攻撃するのはフェアじゃないのでは?彼の挑発は一線を越えてないだろうか?アーティストというよりアクティビストじゃないか?彼の立ち位置は、まさにアートと政治の「交差点」だ。

次に行き当たったのが、エル・ブリというスペインのレストラン。グルメの方はご存知かと思うが、私はドキュメンタリー映画を見て初めて知った。バルセロナから車で1時間半程の郊外にあるエル・ブリは、世界で最も予約の取れないレストランとして有名。年に殺到する予約希望者は100万人。そのうち食事ができるのは8,000人というから、すさまじい競争率だ。

ここの食事の何がスゴいかというと、「食」という体験や既成概念を真っ向からぶちこわす驚愕の料理が40皿近くでてくること。それは、美味しいという感覚を越えて、とにかく「驚き」だという。

というのも、シェフのフェラン・アドリアがメニューを考えるにあたって考えるのは、普段当たり前と思っている食の概念は正しいのか
ーたとえば「スープは液状じゃなければダメなのか?」「デザートは、甘くなくてもいいのではないか?」ーといった問いなのだ。

レストランは半年だけオープンして、残りの半年で翌年のメニューを研究するという。仕事場は、キッチンというより実験室。まさに食と科学が交差する地点。そして創りだされた料理の見た目の美しさは、間違いなく「アート」だ。

残念ながら、レストランは去年7月でクローズしてしまった。エル・ブリは 、今後レストランではなく、財団として食の研究を続ける場になるらしい。

いま、遅ればせながら読んでいるのが、スティーブ・ジョブズの伝記。これまでもジョブズやアップル関連の記事を読むたびに目についた言葉であり、そして本の中でも書かれているのが、「テクノロジーとアートの交差点」。ジョブズのビジョンを的確に表している。

NYを拠点に世界的に活躍されていたアートディレクター&デザイナーで、今年1月に逝去された石岡瑛子さんの旦那様のニコさんと先日お会いした。石岡さんが、生前『ハーブ&ドロシー』を気に入って何度も繰り返し見てくださったという。アートを難しい言葉で語らず、目で見たままを受け入れている二人の姿に感動した、と。そして、すべての場面を細かく見て分析されていたらしい。美を徹底的に追求した石岡さんの目に『ハーブ&ドロシー』がどう映ったのか。石岡さんご本人とお話する機会を持てなかったことは残念でならない。

しかし、世界トップレベルの映画の現場で仕事をされてきた石岡さんに『ハーブ&ドロシー』を評価して頂いたとは、身に余る光栄である。
ニコさんが、最後にぽつんとおっしゃった。「エイコは、東と西、そしてデザインとアートの交差点をいつも追求していた」

「アートと異質の何かが交差すると、すさまじい化学反応が起きる」この一週間の発見だった。

新作『ハーブ&ドロシー 50×50』では、アートと何が交差するのだろう?ピクチャーロックまでに、「交差点」をどれだけ多く見つけられるのだろう?いまの時点で、ストーリーのほぼ4分の3が固まったという感触。まだまだ試行錯誤が続いている。

ハーブの死から10日

7月22日にハーブが89歳の生涯を閉じてから、ほぼ10日になる。

今日も二人のアパートを訪ねてみたが、ハーブがもうここに存在しないという実感が湧かない。ハーブがベッドルームからひょろひょろと出てくるのではないか、という気がしてならない。たぶん多くの人の死がそうであるように、「ハーブの死」は突然やってきて、そして去って行った。

6月半ば、私が日本に到着してから間もなく、ハーブが入院し、その後看護施設に移されたとドロシーからの一報が入った。
体力が落ちて、自分で立ちあがれない程衰弱している、早くNYに帰って来てほしい、と。

6月30日夕方、NYに着いて、家にスーツケースを置いてから、すぐにハーブの入院先へ向かう。この時は、まだハーブはベッドに起き上がって、会話もできる状態だった。1ヶ月近く食べ物をほとんど口にしていなかったけれど、まだ点滴で命をつないでいた。

日に日に弱って行くハーブの姿を見て、周囲の緊張感は高まっていく。特にドロシーは、50年間共に暮らしたハーブを亡くすことへの不安、恐怖、悲しみに日々苦しみ、なす術がないことに苛だちながら、朝から夕方7時まで、一日も欠かすことなくハーブの側に付き添っていた。

人は「わからない未来」に直面すると、不安と恐怖に襲われる。そして、不安と恐怖が募ると、それは怒りに変わる。ドロシーとハーブの家族の間に立って、家族のようだけれど、本当の家族ではない私。ドロシーや家族から飛んでくる、不安や恐怖を私はどう受け止めればいいのか。今回一番難しかったのがこの部分だった。私が家族だったら、無理してでもハーブを退院させたと思う。そして、大好きなホットドッグも、最後に食べさせたと思う。でも、家族ではない私には、できなかった。

しかし、ハーブの死が確実に間近にせまっているのが、誰の目にも明らかになった時、ドロシーの不安と恐怖はすーっと消えたようだった。彼が亡くなったら、誰に連絡を取り、どのように行動を起こすべきか、ドロシーは静かに現実と直面して準備を整え始めた。ナショナル・ギャラリーから発信するプレスリリースにも目を通し、記述に間違いがないかを確認する余裕も出ていた。ナショナル・ギャラリーのような大美術館が、一コレクタ―の死のプレス・リリースを出すのはかなり異例だと後で聞いた。

「その時」が来て、ドロシーは真っ先に私に電話をしてくれた。「Herb just died – ハーブが死んだわ」という一言だけで、電話は切れた。私が駆けつけた時にも、ドロシーはハーブの亡骸の側で、あちこちに電話連絡をしていた。

ハーブの死後、1時間もしないうちにナショナル・ギャラリーからプレスリリースが発表され、3時間後には、ネット上で記事が出始め、24時間以内にニュースは世界を駆け巡った。この時点で、すでに150のメディアに取り上げられていたという。まさに、ネット時代のニュースの伝わる早さを実感した。翌日、ワシントン・ポストの一面に記事が出たほか、NYタイムスやボストングローブでも大きく取り上げられ、3大ネットワークのCBSは、全国ニュースで2度もハーブ死去の短い特集を放送した。

葬儀には、突然の連絡だったにもかかわらず、100人を越える友人やアーティストが集まった。葬儀の様子は長くなるので、ここでは省略して、また別の機会に詳しく書きたいと思う。

「ハーブと共に始まった私たちのコレクションは、ハーブと共に終了しました。」ドロシーの宣言がお葬式で伝えられた。「アーティストからの作品も、今後は一切受け取れないので、ご理解下さい。」一つの時代に幕が降りたことを象徴する言葉だった。

私は、編集室に戻り、エディターのバーナディンと共に頭を抱える毎日が続いている。映画の中で、ハーブの死をどう伝えるのか。エンディングはどうするのか……。秋の世界プレミアに間に合うのか……。

ハーブの映像を見て涙している間もないのは、せめてもの救いだけれど。

さよなら、ハーブ

ハーブは、NY時間の今日、7月22日(日)正午にNY市内の介護施設で静かに息を引き取りました。来月16日、90歳になるのを楽しみにしていたのですが、思いは叶えられず、89歳でした。

ハーブは数ヶ月前から健康状態が急に悪化し、先月半ばに介護施設に入居。この間、ドロシーは、一日も欠かすことなくハーブに朝から夕方7時まで付き添い、連日沢山の家族や友人が訪れていました。

私も6月末に日本からNYに戻ってから頻繁にお見舞いに行き、昨日も夕方にお別れを言ってきたところでした。その時のハーブの呼吸は荒く、意識もなく、もしかしたらこれがハーブに会う最後かも知れない、という思いで帰途につきました。

今日は、ドロシーから正午少し過ぎに電話をもらい、すぐに介護施設へ駆けつけました。ハーブの妹さんと3人でハーブを葬儀場へ送り出した後、ドロシーと一緒にアパートへ戻って、知人にお葬式の通知。

ドロシーは、とてもしっかりしています。この時が来るのを受け入れて、心の準備を整えていたようです。ハーブが亡くなる前の数週間、帰り際に、ハーブに向かって「私はもう一人で大丈夫よ。だから、いつ逝ってもいいのよ。心配しないで」とドロシーは何度も話しかけていました。ハーブは、きっとドロシーの声を聞き届けたのでしょう。

私たちは、これからもドロシーの側にいて、できる限りの力になっていきたいと思います。

すでに多くのみなさまから大変暖かいお言葉を頂きました。ありがとうございます。

コメントやドロシーへのメッセージは、『ハーブ&ドロシー』のfacebookページへお送り頂ければ幸いです。ドロシーは、英語のfacebookページを常に見ています。
https://www.facebook.com/Herb.and.Dorothy.jp(日本語ページ)
http://www.facebook.com/herbanddorothy(英語ページ)

ハーブに続編『50X50』を見てもらえなかったことが、とても悔やまれます。しかし、ハーブが私たちに残してくれた遺産を、一人でも多くの人と一刻も早く共有できるよう、スタッフ一同、映画の完成を目指して頑張ります。映画は、当初の予定より半年ほど遅れてしまいましたが、今、オフラインの編集が7割ほど終わったところです。予定通り、今年秋の完成&プレミアを目指しています。

みなさまの引続きのご支援に、心から感謝致します。

監督&プロデユーサーの脳みそと筋肉を使い分ける

日本での3週間の滞在を終えて6月末にNYに帰って来た。

日本では、未だ不足する製作資金集めに奔走し、来年春に向けての続編の日本公開の準備を整えてきた。今NYでは、頭を切り替えて編集作業に集中している。

プロデューサーとディレクターを一人で兼ねているので、ビジネス面も監督業も全部自分でやらなければならないのは、本当にシンドイ。
使う脳みそも筋肉も全く違う。人格も入れ替わるのではないかと思う。日本にいる時には、朝から晩まで人と会い、ミーティングの連続。
朝ホテルを出て、夜寝る直前までしゃべりっぱなしだった。

映画監督に限らず、アーティストーつまり表現する仕事をしている人—にとって、一番苦手なのがこの部分だと思う。どんなにすばらしいアイディアがあっても、実現するための資金を集められなければ何も作れないし、一人でも多くの人に作品を見てもらうためには、マーケティングの知恵も必要だ。それは、目の前にいる企業や財団の代表者に向かって、自分の作品をアピールすることから始まるのではないかと思う。一人の人間に自分の情熱を伝えられなくて、どうやって大勢の人に訴えるものが作れるだろう。私も、知らない人のところへ行って頭を下げて「お金を下さい」と言って廻るのはイヤだけれど、ここを乗り越えなければ映画を作り続けられない、と自分に言い聞かせて鍛錬している。

NYに帰ってくると、私の役割はプロデューサー業からディレクター業に変わり、一気にトーンダウンした。人とのやりとりはほとんどがメールになり、オフィスや自宅にこもって映像を見て、資料を読み、じーっと考える日々が多くなる。しかし、人との折衝で精神的にかなり消耗した後で、映画製作の現場に戻ると、乾いた大地に水が戻ってきたように、元気になる。

NYに戻ってすぐ、編集のバーナディンが住むウッドストックへ向かった。NYから車で北へ3時間ほど行ったところにある町で、1969年のロック・フェスティバルで有名になった(実際に開かれたのは近くのベセナという町だけれど)。いつもは、バーナディンが日帰りでNYへ来て終日打ち合わせをするのだけれど、今回は独立記念日の休暇もあったので、私の方から出向いて、2泊3日で編集合宿をしてきた。

森に囲まれた小さなバーナディンの家は、おとぎ話に出て来るような瀟洒なたたずまい。蟻の駆除や野生動物対策で苦労しているらしい。
「運が良ければ熊の親子が家の前に出てくるよ」とバーナディンが言うので楽しみにしていたが、あいにく熊には会えなかった。

私が日本に滞在中、バーナディンは全てのシーンを編集し終わり、2時間のラフカットが出来上がっていた。いったん繋がった全米12の美術館、6人のアーティスト、ハーブ&ドロシーの自宅や、マイアミ・アートバーゼルなどでのシーンを、さらに小さなテーマごとにばらばらに切り刻む。頭がクラクラする。一体、どうすればこのパーツがスムーズに流れるように繋いで行けるんだろう?登場人物のインタビューからキーワードを探しながら、バーナディンとブレーンストーミングを繰り返し、細切れになった映画を再編成して行く。

前にも書いたが、先日アーティストのリチャード・タトルに会った時、この映画は、私にとっての「成長の記録」となるはずだと言われた。
そして、この映画は一つの軸にそってすうっと流れるのではなく、一枚の大きなタペストリーのように広げて編み込むものであるのが見えて来た。そこには、ハーブ&ドロシーや、全米の美術館、地元の子どもたちやアーティストたちの絵柄が細かく編み込まれ、アメリカのアートの世界模様が映し出されている。アートって何? 美術館って何? アーティストにとっての成功や名声って、何? という問いがタペストリーから投げかけられる。それは、私がこの映画製作で綴ったアート探求の旅の記録でもある。

来週の月曜日には、いよいよ作曲家のデイビッドと音楽の打合せ。編集もいよいよ大詰めを迎える。そして、一カ月後の8月16日は、ハーブの90歳の誕生日。ただ、最近どうもハーブの容態があまり良くないのが心配だ。早く元気になってくれることを祈るばかりだ。

甘い復讐

今朝、ドロシーからこんなメールが転送されてきた。
「SWEET REVENGE FOR A BROKEN GUITAR—壊れたギターへの甘い復讐 」。
これを読んで、1ヶ月前に、続編の撮影でラスベガスとモンタナへ
行った際に、移動途中で起きたトラブルを思いだした。

土曜日、終日ラスベガスでロケして夕方の飛行機でモンタナへ移動す
る予定が、飛行機に乗り遅れてしまったのだ。
預ける荷物もなく、手荷物だけで、出発の40分前に空港カウンター
に到着したのに、アラスカ航空の従業員は、頑として飛行機に乗せて
くれない。規則では、出発の45分前にチェックインしなければなら
ないという。担当者は「次の飛行機に乗せてあげるわよ。到着は明日
の夜11時だけど、どうする?」と、しゃあしゃあと言うではないか。

モンタナでは、イエローストーン美術館の館長と、翌日の朝11時にア
ポが入っている。日曜の朝にわざわざ時間を作ってくれたのだ。
現地のカメラクルーも、ブッキングしてあるので簡単には予定を変え
られない。チケットを買った旅行会社やアラスカ航空の親会社、ユナ
イテッド航空にも掛け合ったけれど、全くダメ。予定通りロケをする
には、ラスべガス〜モンタナのチケットを新しく買うしかなかった。

土曜夜にフェニックスとデンバーで2度乗り換え、寝る暇もほとんど
なく、何とか朝9時過ぎにモンタナ州のビリングスに到着。撮影も無
事終了した。しかし、このためにかかった余分な飛行機代、宿泊費な
ど、被害総額はおよそ1000ドル。

NYに戻ってからも怒りは収まらず、 Facebookにこの事を書いたら、
沢山のコメントが寄せられた。同じような経験をしている人が大勢い
る。そして、高校の後輩が送ってくれたガイドラインを読むと、アメ
リカの空港チェックイン 時間は、手荷物だけの場合、30分前とある
ではないか。しかし、その下に小さな字で 「ラスベガス、アトランタ、
デンバー空港は、例外で要45分前到着」とあった。とほほ。
それにしてもねえ。たった5分の遅刻ですよ。

アメリカでは、航空会社とのもめ事は日常茶飯事で、誰にでもホラー
話の一つや二つは必ずある。何より頭にくるのが、従業員の失礼極ま
りなく、誠意のない態度。空港で、お客さんが、カウンター越しに航
空会社の社員に襲いかかり、ガードマンに連行される場面を目撃した
こともある。

で、ドロシーのメールに書かれた「甘い復讐」の話だけれど、これが
実に痛快であの時の怒りもふっとんでしまった。3年前に話題になっ
たらしいが、私は全然知らなかった。

デイブ•キャロルというミュージシャンが、ユナイテッドの飛行機で
移動する際にテイラーというメーカーのカスタムメイドのギター
($3500相当の価値)を預けたところ、明らかにユナイテッドの取り
扱いミスでギターを壊されてしまった。8ヶ月にわたって、弁償の交
渉をしたけれど、全く埒があかない。

「こうなったら、今回のことをビデオにしてYouTubeにあげるぞ」
と脅してもダメ。そこでデイブは「ユナイテッドにギターを壊された」
というタイトルで曲をつくり、ミュージック•ビデオにしてYouTube
にあげたところ、数日で100万以上のヒット数に!

ユナイテッドが、後で慌てて彼に連絡してきて、交渉に乗るからビデ
オをYouTube からはずしてくれ、と頼んだけれど、もちろん彼は応
じなかった。そして、彼のおかげでブランドの認知度が上がったテイ
ラーは、お礼として彼にギターを2台プレゼントしたという。
デイブは、一躍有名人になり、彼はパート3までビデオを作って、視
聴者は合計1億5千万人!

あるイギリスのジャーナリストが試算したところ、このビデオがユナ
イテッドにもたらした被害総額は180万ドル、株価10%下落に相当するとか。
その真偽はわからないけれど、アメリカの企業の顧客対応方法に、
大きな変革をもたらしたのは確かなようだ。
デイブは、今や音楽活動だけでなく、そうした企業に呼ばれて、
講演でも大忙しらしい。このミュージックビデオ、最高に笑える。
航空会社とのトラブルで嫌な思いをした経験がある人が見れば、
誰もが胸のすく思いをするだろう。
こういうクリエイティブな復讐の発想ができるのは、さすがアメリカ人・・・
と思ったら、彼はカナダ人でした。ビデオは、こちらから。

映画では使えなかったジョン・チェンバレンのインタビュー

この週末、グッゲンハイム美術館にジョン・チェンバレン展を見に行った。

チェンバレンと言えば、最初にハーブ&ドロシーのコレクション入りした作家。映画の中で、初めの方に出てくるナショナル・ギャラリーでのシーンは、きっと覚えて下さる方も多いと思う。ハーブが、獲物を狙う動物のような目でじーっと見て、「買ったときは、この置き方じゃなかった」という、あの場面。

チェンバレンは、1950年代終わりに出てきた抽象表現主義の作家。絵の具の代わりに、廃車のパーツを使い、キャンバスではなく、立体的な彫刻で知られる。アメリカの消費文化の象徴とも言える車を素材にして、ダイナミックでカラフルな色使いの彫刻は一斉を風靡した。

今だから言えるけれど、実は私は「ハーブ&ドロシー」の映画のために、チェンバレンをインタビューしたことがある。二人が、結婚後初めて購入した作品を買った時の様子やいきさつを是非知りたいと思ったからだ。NYから車とフェリーを乗り継いで4時間かけて、シェルター・アイランドという小さな島に、2005年の12月にカメラマンのアクセルと二人で訪れた。

そこで待っていたのは、彼の半分くらいの年のお美しい奥様(4人目)と、同じくお美しい高校生の娘さん2人。体育館くらいあるような巨大なスタジオにあふれ返る色とりどりの車のパーツと、その合間にそびえる彼の新作は圧巻だった。

とても愛想のいい奥様と娘さんとは対照的に、のっけからチェンバレンは不機嫌だった。何を聞いても「知らん」「覚えてない」の繰り返し。明らかに人を見下す態度。そして最後に「ああ、あのチビのことか?」スタジオの後ろの方で、母と娘たちは、小動物のように身を寄せて怯えながらその様子を見ていた。

インタビューは15分で終わった。

ところが、カメラを片付けたとたんに彼は上機嫌になって「今実験的につくってる新作を見せるよ」と自宅兼オフィスに案内してくれる。写真をコピー機でキャンパス地に印刷したイメージを見せてくれた。私はインタビューが上手く行かなかったことで、ぶりぶり怒っていたので、そっぽを向いていた。今思うと、何て大人気ない。

すると、チェンバレンがその作品にサインして「メリークリスマス!」と言ってアクセルと私に一点ずつプレゼントしてくれるではないか。(そうだ、今思い出したけれど、あの作品はどこへ行ってしまったんだろう?!)

何とかチェンバレンのインタビューを使えないかと編集のバーナディンと頭をひねったけれど、ダメだった。というのも、彼の悪辣さは、映画のトーンにあまりに合わない。このインタビューを使うとチェンバレンも、ハーブ&ドロシーの事も良く見えないし、何ていうか、映画が濁ってしまう。

彼の口の悪さは、世間で有名だったらしい。ということを、展覧会のオーディオガイドで知った。中西部生まれで幼い時に両親が離婚し、中卒、若い頃に奥さんを病気で亡くしていた。彼のはったりの陰には、とても傷ついた心があったのかも知れない。本当はビッグハートの持ち主である事を隠すための、彼独特のはにかみだったのか、とも思う。

グッゲンハイムで見た作品の数々は、そんな彼の複雑な人間性が垣間見えるものだった。乱暴なようで、エレガント。雑なようで繊細。男っぽいけれど女性的。そして、廃車になった車のバンパーとは思えてないような見事な色使い。ハーブ&ドロシーのコレクションにあるような小さな作品も何点かあった 。ハーブが言ったように、どれも「小品ながら大きなスケールを感じさせる」ものだった

アートのことを全く知らず、彼の作品のこともわからないままインタビューしていた私。チェンバレンは、そんな私の無知を見抜いていたんだと思う。失礼なのは、私の方だった。

チェンバレンは、去年の12月、このグッゲンハイムでの回顧展のオープンを待たずに 、84歳で亡くなった。彼には「ハーブ&ドロシー」が完成した時の案内さえ送らなかった。彼は、映画を見てくれたのだろうか。それを確かめることも、お詫びを言うチャンスもなかったのが、悔やまれてならない。